仕掛けの要約【ネタバレ】
小説は、カナダの小説家が書いた「作者の覚え書き」から始まる。彼はインドの町で、神を信じたくなるような話があると一人の老人から聞かされ、その話の主である男を訪ねる。そしてこの男の話を、本人の声で語らせるほうが自然に伝わると断ってから、物語に入る。
ここから先は、パイと呼ばれる男の一人称になる。動物園を営む一家に育った少年時代が語られたあと、一家と動物を乗せた日本の貨物船が太平洋で沈み、少年は救命ボートに取り残される。同じボートには、負傷したシマウマ、オランウータン、ハイエナ、そして一頭のベンガルトラがいた。ハイエナがシマウマとオランウータンを殺し、トラがハイエナを殺す。少年はトラと二頭きりになり、これを飼い慣らしながら二百日あまりを漂流し、メキシコの浜にたどり着く。読者はこの長い漂流を、少年本人が体験として語る出来事として読む。
最後の部では、沈没の原因を調べに来た日本の調査官二人が、入院中の少年から話を聞く。この部分は聴取の書き起こしの形で示される。動物の話を信じない調査官に、少年はもう一つの話を語る。ボートにいたのは動物ではなく、水夫、船のコック、少年の母親だった。コックが水夫を殺して食べ、母親を殺し、少年がコックを殺した。調査官は二つの話を突き合わせ、シマウマが水夫、ハイエナがコック、オランウータンが母親であり、トラは少年自身だと気づく。少年はどちらの話が好きかと尋ね、調査官は動物のいる話を選ぶ。
収録するのは、漂流の物語を最後の部のもう一つの話が読み替える層である。どちらの話が作中の事実なのかは最後まで定まらない。仕掛けは、その答えにではなく、読者が一方の話だけを長く、体験の語りとして先に受け取らされる配置にある。
騙しの技術
- 同じ話を、作中の聞き手と読者に別の形で渡す。 調査官は漂流の話を、事故の聴取で本人が述べた供述として聞き、その場で疑う。読者は同じ話を、作者の覚え書きが本人の声で語ると予告したうえで、何百ページにわたる一人称の体験の語りとして受け取る。作中で漂流の話を「物語」として長く抱えるのは読者だけで、聞き手が疑う場面に立ち会うのは、読み終える直前になる
- 作中の聞き手が疑う場面を、最後に置く。 調査官の聴取は、漂流の語りがすべて終わった後に書き起こしとして置かれる。もう一つの話もここで初めて出る。読者は漂流の間じゅう、それを疑う声を聞かされない
- 前置きで、話の性格を予告してしまう。 覚え書きは、これから語られるのが神を信じたくなるような話であることを、最初に告げている。予告された話の性格は物語の主題として受け取られ、話の中身が語り手によって置き換えられている可能性には向かわない
- 語り手を二つの存在に分ける。 もう一つの話では、トラは少年自身にあたる。漂流の語りの中で、少年とトラはボートの上で向き合う別々の存在として描かれ、読者はそれを一人の人間の二つの面として数えない
- 作者は嘘を書いていない。 漂流の話は作中の語り手の語ったものであり、小説はそれを本人の語りとして差し出しているだけである。地の文が事実を偽る箇所はない
フェアプレイの担保
- 漂流の語りの中には、人間の残酷さを思わせる出来事が置かれている。ボートで出会う別の漂流者は少年を食べようとし、立ち寄った島では人を食らう仕組みが見つかる。真相を知って読み返すと、こうした場面がもう一つの話の影として読める
- トラの名前は、救命ボートで食べられた船員の実在の事件や、先行する海洋小説の人物から取られている。作中の調査官はこの由来を知らず、読者の側にだけ届く手がかりになっている
- もう一つの話は、作中の調査官によって一つずつ漂流の話と突き合わされる。読者は対応の確認を作中で見せられ、読み返す道筋を与えられる
効き目
- 最後の短い部で、それまでの漂流の語りの全体が、別の出来事を動物の姿で語ったものとして読み替えられうる。トラと少年の長い対峙が、少年と自分自身の対峙として読み直せるようになる
- 作品は、どちらの話が事実かを決めない。読者は調査官と同じ問いを向けられ、どちらの話を選ぶかを自分で決めることになる。反転の後でも漂流の話を選ぶ読者がいることを、作品は前提にしている
- 動物の話を選ぶことが、覚え書きの予告した「神を信じたくなる話」の意味と結びつき、読み替えが作品の主題そのものに回収される
弱点・破綻しやすい点
- もう一つの話は、作中の聴取で語り手自身が持ち出す別の証言である。この点だけを見れば、終盤で明かされる新しい証言によるどんでん返しと区別がつきにくい。読者に固有の誤認は、話の中身ではなく、その話をどの形で、どの順で受け取ったかにある
- 真相が決まらないため、読み替えを「騙された」と受け取らず、二つの話の並立として受け取る読者もいる。反転の強さは読者によって大きく違う
- 漂流の語りには、食人の島のように現実離れした出来事が含まれている。疑い深い読者は、反転の前から漂流の話の字義どおりの真実性を疑いうる