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ABC殺人事件

アガサ・クリスティ / 1936 / 小説

読者が誤認するもの

人物›人物の属性›役割
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層複合
叙述N-動機と心理
媒体固有T-小説/記録という体裁T-共通/囮の仕掛け
効果E-ジャンルの約束は守られるE-作者が内側から追う人物は犯人である
手段M-心理誘導

⚠️ このページは作品の核心(真相)に触れます。未読・未視聴の場合はご注意ください。

まだ読んでいない方へ。この下は真相に触れます。

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仕掛けの要約【ネタバレ】

本作は、ポワロの友人ヘイスティングズが事件後にまとめた記録という体裁をとる。その記録の合間に、「ヘイスティングズ大尉の記録にあらず」と断った三人称の短い章が何度も挟まれる。三人称の章が追うのは、アレグザンダー・ボナパート・カストという、頭文字が A・B・C の冴えない行商人である。

最初の三人称の章は、ポワロのもとに A.B.C. と署名した殺人予告の手紙が届いた直後に置かれる。そこでは、この男が鉄道案内を調べ、タイプ打ちの名前の一覧の一つに印を付ける。章は日付を記す一行で終わる。読者は、犯人の側から事件を描く倒叙ミステリの型として、この男を連続殺人の犯人 A.B.C. と受け取る。探偵の側はこの男の存在をまだ知らない。

真相では、カストは犯人ではない。真犯人は、ある一件の殺人の動機を隠すために連続殺人を装った別の人物で、偽の会社を装ってカストを靴下の行商人として雇い、見込み客の一覧を送って、殺人の日にその町へ行かせていた。一覧は標的の名簿ではなく、行商の訪問先だった。

仕掛けは二つの層に分かれる。

層誰が誰を騙すか受け手への渡し方
作中の層真犯人が、警察・探偵・カスト本人を騙す(連続殺人の偽装、身代わりの用意)読者も作中の人物と同じ証拠・証言の経路で受け取る
叙述の層記録の編み方が、読者だけにカストを犯人役として差し出す探偵の側が知るより前に、記録とは別の性質の章として、読者にだけ渡す

騙しの技術

  • 行動を書き、その意味を書かない。 最初の三人称の章は、男が一覧に印を付ける動作を描くが、一覧が何のためのものかは言わない。男自身は自分の仕事の一覧だと知っているはずだが、語りはそれを伏せる。読者は空いた意味の欄を、直前に届いた殺人予告の手紙で埋める
  • 倒叙の形式に寄りかかる。 本筋とは別に、特定の人物だけを追う章が挟まれると、読者はそれを犯人の視点の章として読む。倒叙の約束では、作者が内側から見せる人物が犯人である。作中の誰もこの男を知らない段階でそれを見せることで、犯人役の割り当ては読者の側だけで起きる
  • 記録の書き手に、別の章を立てさせる。 三人称の章は、一人称の記録者が自分の居合わせなかった場面を事後に再構成したものだと、まえがきで断られている。記録者は解決を知ったうえで書いているが、その章が犯人の章ではないとは言わない。記録という体裁が、何を書いて何を書かないかの選択を自然なものにしている
  • 作中の偽装と重ねる。 中盤以降、カストは実際に殺人の町に居合わせ、作中の証拠も彼を指すようになり、本人まで自分が犯人ではないかと疑い始める。叙述の層が先に作った犯人役の割り当てを、作中の層の偽装があとから補強するため、二つの誤導の継ぎ目が見えにくい
  • 目立つ容疑者で、動機を見えなくする。 読者の関心は、この男が犯人なのか、どう捕まるのかに向く。そのあいだ、殺人のうち一件だけに動機がある、という問いは立ちにくい

フェアプレイの担保

  • 三人称の章は、その人物の動作と知覚の範囲だけを書いており、殺したとは一度も書いていない。真相を知って読み返すと、一覧に印を付ける動作は行商の訪問先の確認として通る
  • まえがきで、三人称の章が記録者の居合わせなかった場面であることも、人物の考えの描写に脚色があることも断られている
  • 作中では、身代わりの人物と手紙が描く犯人像が噛み合わない点が、探偵の推理の糸口になる。同じ食い違いは、読者も三人称の章から読み取れる位置に置かれている

効き目

  • 連続殺人の犯人を早々に見せられた読者は、犯人当てではなく「なぜ」と「どう捕まるか」を読むつもりになり、真犯人を探す問いが弱まる
  • 叙述の層の誤導と、作中の層の偽装(一件の動機を連続殺人に紛れ込ませる)が、同じ方向に読者を押す。一方を見破っても、もう一方が残る
  • 発表当時の書評にも、第2章で作者が連続殺人の犯人本人らしき人物を見せる、という受け止めと、囮に気を取られて動機の検討を怠った、という受け止めが見られる

弱点・破綻しやすい点

  • 容疑者が目立ちすぎる。 あまりにも怪しく描かれた人物は、身構えた読者には身代わりと映る。作者の評判を知る読者は、見せられた犯人をはじめから疑ってかかる、という評は発表当時からある。この層は、叙述トリックを警戒する読者にはそもそも成立しにくい
  • 身代わりの人物が、手紙から想像される犯人像と噛み合わない。これは作中の推理の手がかりであると同時に、読者が早く疑いを持つ原因にもなる
  • 一人称の記録の合間に三人称の章が挟まる形式そのものを、作為が目立つとして好まない評がある
  • 身代わりが毎回、真犯人の筋書きどおりに動くことに無理がある、という指摘がある
  • 叙述の層が外れても、作中の層(連続殺人の偽装)が残るため、作品全体の驚きは保たれる。逆に言えば、叙述の層は作品の主たる仕掛けではなく、それを支える役にとどまる

読み返してみませんか。

仕掛けを知ってから読むと、同じ記述が別の意味で通ります。

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