仕掛けの要約【ネタバレ】
本は、推理作家を志す駆け出しの「ぼく」が、これまで誰も犯人にしたことのない人物、すなわち読者を犯人にすると宣言する短い章から始まる。この推理小説に潜む真犯人は「きみ」だ、と。
本編は二つの系列が交互に並ぶ。一つは、中学生のキリコと薩次が漫画原作者の殺害や校内の密室殺人を解く物語。もう一つは、旅客機事故で体の自由を失った少年作家の桂と、同じ事故で両親を失った隣家の少女清子の物語である。キリコたちの物語は、桂が書いている推理小説だと最初から示されている。読者は、桂と清子の物語を本の外枠、つまり作品の現実として読み、キリコたちの物語をその中の作中作として読む。外枠では、事故を起こした自衛隊機の元操縦士が密室状況で死ぬ事件が起き、桂はその真相に迫っていく。
この作品には三つの層がある。
一つ目は、二つの作中作の謎(時刻表を使ったアリバイ、校内の密室)と、外枠の事件の謎である。これらは作中の人物どうしの騙しで、それ自体は叙述の仕掛けではない。
二つ目は、外枠の位置である。外枠だと思って読んでいた桂と清子の物語も、桂が書いた手稿だった。桂は事件の真相にたどり着いたあと自ら命を絶ち、その前に、作中作に自分と清子の物語を書き足していた。読者が本の現実だと受け取っていた層は、作中の書き手が一人の相手に宛てて遺した文書だったことになる。
三つ目は、冒頭の宣言の宛先である。読者は「きみ」を、いま本を手にしている自分のことだと読む。だが、この手稿が読まれることを想定している相手は清子ただ一人であり、犯人とされる「読者」は清子を指していた。手稿は、それを読む清子が事件の罪を負う者だと告げて終わる。宣言は字義どおりに果たされているが、果たされる相手は本の読者ではなかった。
さらに終章では、薩次が辻真先という筆名で小説を書く場面が置かれ、どちらの物語がどちらを書いたのか、層の上下があらためて揺らぐ。
騙しの技術
- 宛先を書かない二人称で宣言する。 冒頭の章は「きみ」が犯人だと言うが、その「きみ」が誰なのかは書かない。本の冒頭で読者に語りかける形をとるので、受け手は自分が呼ばれていると読み、ほかの宛先を探さない
- 仕掛けの存在を先に告げる。 「読者が犯人」と宣言されることで、受け手の問いは「どうやって自分が犯人にされるのか」に向かう。「読者」という語が誰を指すのかは、問いとして立ちにくい
- 作中作であることを片側だけ明かす。 キリコたちの物語が作中の小説であることは、はじめから隠さない。一方の層を作中作だと明示することで、もう一方の層は作品の現実として受け取られる。受け手は自分で枠を閉じてしまう
- 外枠を、作中の書き手が書いた記録にする。 桂と清子の物語が桂の手稿であれば、そこに何を書き、何を書かないかは書き手が選べる。手稿に作中作と同じ注記や時刻表が入っていても、受け手には本の体裁の一部にしか見えない
フェアプレイの担保
- 冒頭の宣言そのものは偽っていない。作中で読者とされる人物が犯人とされる形で、字義どおりに果たされている。嘘は書いていない、という評がある
- 作中作の存在は最初から明示されており、作中の小説と外枠が交互に並ぶ構成そのものが、層の問題に注意を向ける手がかりになっている
- 外枠の章にも作中作と同じ注記や時刻表が入っていることが、外枠もまた書かれたものであることを示す手がかりだと読める。ただし、本の体裁として当然のものにしか見えず、手がかりとして弱いという指摘がある
- 作中作に載った時刻表が、外枠の事件の解決にも使われる。二つの層が地続きであることは、仕掛けの手前で示されている
効き目
- 「読者」が誰を指すかが分かると、冒頭の宣言と外枠の章の全体が、一人の少女に宛てた遺書として読み直される。作中作を通じて打ち明けられる恋心として受け取った読者もいる
- 自分が犯人にされると身構えて読んだ受け手ほど、犯人にされなかったことに意外さを覚える。肩透かしだという反応と、そう落とすしかないと納得する反応の両方がある
- 外枠が作中作だったと分かり、さらに終章で書き手の位置が揺らぐことで、どこまでが作中の小説でどこからが作品の現実なのかが分からなくなる。読後に層の上下が分からなくなったという感想が多い
- 1972年刊行の少年少女向けの作品で、「読者が犯人」の趣向を早くに実践した例として知られている
弱点・破綻しやすい点
- 「読者」と言われれば本の読者を指すと考えるのが普通で、それを作中の一人物に限定するのは強引だという批判がある。犯人とされる人物を「読者」にするためだけに、外枠を作中の記録に仕立てているように見える、という指摘もある
- 手稿が一人の相手のためだけに書かれたのなら、それがなぜ本として出版されているのかが説明されていない。読者を一人に限る設定と、多くの読者がいる現実とが噛み合わない
- 終章で薩次が作者と同じ筆名で書く場面は、キリコたちの物語を桂の作中作とする構図と整合しないと受け取られることがある。層の揺らぎを意図した趣向と読むか、設定の綻びと読むかで評価が分かれる
- 外枠の人物が罪を負う者とされるのが、どの出来事についてなのかは、読み方によって受け取りが分かれる
- 「読者が犯人」の宣言を知って読む受け手は多い。宣言の宛先がずらされるという種類の驚きは、予告に身構えた読者には効くが、作中作の趣向に慣れた読者には小さく感じられる