仕掛けの要約【ネタバレ】
画家のアリシアは、ある夜、夫ガブリエルを銃で撃ち殺し、それ以来ひと言も口をきかなくなった。6年後、心理療法士のセオは、彼女が収容されている司法精神科の施設に職を得て、その沈黙を解こうとする。本文はセオの一人称で語られ、施設での治療と調査の話のあいだに、彼自身の話が挟まる。俳優の妻キャシーとの結婚生活と、妻の浮気を知ってその相手を尾行するまでの話である。さらに、殺人の前にアリシアが書いていた日記が差し込まれ、誰かに家を見張られているという不安が綴られる。
読者は、セオの結婚生活の話を、施設での仕事と同じ時期に進んでいる現在の私生活として読む。実際には、この話は殺人より前、日記と同じ時期の出来事である。妻の浮気相手はアリシアの夫ガブリエルであり、セオが尾行していた男の家で見た「その妻」はアリシアだった。日記で家を見張っていた男、殺人の夜に覆面で押し入り、夫に自分の命と妻の命のどちらかを選ばせた男は、語り手のセオ自身である。
誤認は三つ重なっている。二つの話が同じ時期だという時間の誤認、語り手が事件の外から来た治療者だという誤認、そして妻の浮気相手を名もない別人と数える誤認である。時間の誤認が解けると、残りの二つも同時に解ける。
騙しの技術
- 過去の話を、現在の話と交互に置く。 結婚生活の話は施設での仕事の話と章ごとに入れ替わりながら進む。語り手が同じで、二つの話がそれぞれ少しずつ進むため、読者は両方を同じ時期の二つの面として受け取る。どちらの話も単独で見れば正しい
- 時期の差を真相まで明かさない。 結婚生活の話が施設勤務より前の出来事だということは、真相の場面まで読者に分からない。読者は交互に並んでいることから同じ時期だと補う
- 相手が誰かを伏せる。 妻の浮気相手が誰なのかは、尾行の場面では明かされない。読者の頭の中ではアリシアの夫はすでに死んでいるので、生きて浮気をしている男が彼である可能性は、そもそも浮かばない
- 語り手が自分の行為を語らない。 セオは自分の生い立ちや嫉妬、尾行までを率直に語るが、尾行した先で何をしたかは語らずにおく。一人称の語り手は語ることを選べるので、語られていないことが目立たない
- 治療者の立場が、語り手を事件の外に置く。 セオは謎を解きにやって来た者として登場し、関係者を訪ねて回る。謎を追う役の人物は事件に関わっていないという前提が、日記の見張り役の候補から彼を外させる
フェアプレイの担保
- 語り手は早い段階で、自分の話を脚色したり嘘をついたりはしないと読者に約束する。真相を知ると、この約束自体が時間の並べ方で破られていたと読める
- 施設に戻ったことについて、犯行現場に戻ったと皮肉に言う人もいるだろう、という趣旨のことを語り手自身が口にする場面がある
- セオがなぜ数ある患者の中からアリシアにこだわるのかは、初読のときから疑問として残る。その執着の強さは、治療への熱意として読まれる
- 浮気相手の男に、自分を慕う妻がいることが尾行の場面で書かれている。その妻が誰なのかは、読者が問わないまま進む
- 一方で、セオの生い立ちが細かく書き込まれていること自体を、真相への布石と見て警戒する読者もいる
効き目
- 一つの時間のずれが明かされた瞬間に、浮気相手の正体、日記の見張り役の正体、語り手の立場が一度に裏返る。結婚生活の話が、本筋と無関係な私生活の描写から、事件の発端そのものへと意味を変える
- 二つの話が終盤でつながる、という構成への驚きを挙げる読者が多い。時間軸の違う章立てに毎回引っかかってしまう、という感想もある
- 語り手は嫉妬や執着まで率直に語るので、読者は彼が隠しごとをしているとは考えにくい。率直さそのものが目隠しになっている
弱点・破綻しやすい点
- 一人称の治療者が実は事件の当事者だった、という型自体は知られており、セオの不自然な執着から途中で半分ほど見当をつけた、という読者もいる
- 語り手が読者に対してフェアだったかどうかは、評価が分かれる。時間を並べ替えただけで嘘はついていないと見る向きと、約束を破ってフェアに振る舞っていないと見る向きがある
- 真相の最後の部分は、作中で見つかる日記によって明かされる。語りの外にある文書が種明かしを担うため、語りそのものの反転より、新しい証拠の提示として受け取られやすい
- 時間のずれの驚きに比べて、事件の決着は小さくまとまっていると感じた、という評もある